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ストリートビューで史跡を仮想散策

このページでは、会津若松市を代表する史跡、「鶴ヶ城」「飯盛山」「御薬園」を仮想的に歩きまわることが可能です。
これはGoogle社のストリートビューというサービスを使用しています。

鶴ヶ城

鶴ヶ城
別称若松城
戦国期には当地に葦名氏の「黒川城」があり、蒲生氏郷が文禄元年(1592)に甲州流の縄張を用いて郭を築き、7層の天守閣、櫓をたて、馬出を作ったと伝えられます。また地名を若松と改め、城を鶴ヶ城と命名しました。
慶長の大地震(1611)で傾き長い間放置されていましたが、加藤明成の時代に鶴ヶ城の大改修に着手。大手門を北側、天守閣を5層に改め、石垣を改修・新築、出丸を拡張、空堀に水をたたえるなど鶴ヶ城を現在のような形態としました。
天守閣は戊辰の役で砲撃され、明治7年に取り壊されましたが、昭和40年に内部を郷土博物館展示場として再建されました。

飯盛山

白虎隊の墓
  • 飯盛山についてのお問い合わせ
    会津若松市観光課 電話:0242-39-1251
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  鶴ヶ城を南西に見下ろす小高い山の中腹には、一年中香華こうげのたえることのな白虎隊士19名の墓があります。
   白虎隊は、戊辰戦争のおり藩主の親衛隊として組織された、15歳から17歳の少年たちからなる若い隊でした。その後15歳は除隊となり16歳、17歳の編制となりました。
   慶応四年(1868年)8月22日、滝沢本陣で指揮をとっていた 松平容保は、西軍進攻の知らせを受け、白虎隊40名に出陣を命じます。少年たちは初陣に胸躍らせて戦場へと向かい勇敢に戦いますが、力及ばず退却となってしまいます。すでに20名となった少年たちは疲労と空腹に耐え、猪苗代湖の水を会津へと通していた戸ノ口堰洞門をくぐりぬけ、飯盛山へとやっとの思いでたどりつきますが、ここで炎に包まれた鶴ヶ城と城下を目前にし、いさぎよく藩主に殉じようと自刃を決意するのです。
   20名のなかで1人だけ生き残った  飯沼貞吉 によって、白虎隊の忠義と悲運の物語は広く人々に知られるところとなりました。白虎隊を偲びその霊を慰める剣舞は、春と秋の年二回行われる墓前際で、飯盛山の19隊士墓前で奉納されます。

御薬園

御薬園

御薬園は、江戸時代中期に作られた庭園です。会津藩主の別荘として使われていました。薬草の研究をする場でもあったため、御薬園と呼ばれています。 古い写真は明治時代に撮られたもの。きれいに整備された園内が写っています。戊辰戦争のとき、城下の至る所で火災が起こり、御薬園の周辺もすべて焼き払われました。しかし、水と薬草があった御薬園は西軍の治療所とされて戦火を免れ、ほとんど昔のままの姿で残ることができました。 周囲にビルやお店ができていく中で、歴代の藩主が見ていた景色がそのまま残る御薬園。園内には昔と変わらないゆったりとした時間が流れています。


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